父がなくなった時のあれこれ。

1.病気の経緯

父は、12年ほど前に、多発性骨髄腫と診断されました。
自分なりに調べてみると、いわゆる骨髄の癌で、治療法はなく、3年後の生存率が50%
という難病です。骨も弱って骨折しやすくなり、白血球も少なくて免疫力がなくなり、
ちょっとした風邪でも肺炎等を併発して死んでしまうとのことでした。

それでも2年ほど前までは何ともなく、ゴルフや好きなことを普通にやっていましたが、
病気は進んでいたようで、ある時、突然高熱がでて入院、その後は入院、退院の繰り返
しで、段々とやせ細り、弱っていくようでした。
一時、かなり病状が進んだのですが、放射線治療を行って病気の進行はかなり食い止め
たようです。

その時の様子は悲惨でした、やせ細り、髪も全部ヌケ落ちて、ああ、もうダメかなと
思っていたのですが、治療の甲斐あって、また元気になりました。髪も生えました。
深海鮫エキスというものを飲んでいたのですが、これがよかったのか、かなり病状も
安定していました。

去年の夏から、また頻繁に入院するようになったのですが、それでも最近になって成分
輸血を受けるようのなってからは、悪いながらも安定してきました。
ただ、輸血の回数も月に1回が2回、1週間に1回、3日に1回とみるみる増えてきます。
血小板も少なくなっているようで、輸血の前日くらいになると、口の中のあち
こちから出血し、元気がなく終日ぐったりしていました。

最期の一ヶ月は、やはり、かなり病状が進んだようで、食欲もなくなり、二日に一回の
成分輸血で命をつないでいるという状況でした。

2.最後の1週間

1月も終わりの週の日曜日、咳き込みがひどくなったため、入院ということになりました。
その日に私も見舞いにいったのですが、病院についてからは落ち着いたらしく、見た目は
まだ、大丈夫そうでした。また、先生の話では、軽い気管支炎とのことで、そんなに心配
することはないでしょうとのことでした。
2日に1回輸血が必要な人間に心配することはないとは、なんだかなぁと思いました。
また、ろれつも回らなく、時々"ここはどこだ?"とか口走り、意識もおかしくなっていた
ようです。
でもまだ、このときは父も退院を考えていたようです。

次の週の水曜日に母から電話がありました。父の容態がかなり悪いらしい、
夜から朝にかけて咳き込み、痰がからんでかなり苦しんでいるとのこと。
また、主治医の先生から話があるのできてほしいとのことです。

とりあえずいってみると、先生から2枚のレントゲン写真を見せられました。
一枚は今回入院してすぐのもの、もう一枚は今朝とったものとのことです。
素人目でもその違いは歴然です。今朝の写真では肺の片方が真っ白になっていました。

気管支炎がこじれて肺炎になっているとのこと。
肺の片側は全然機能していないそうです。
今までの感染症とは違い、今回は乗り切れないだろう、覚悟をしてください。
最後になると、かなり苦しむので、モルヒネの静脈注射をするそうです。
連絡先をきかれたので、私のPHSの番号を教えておきました。

3.最後の日
 --電話--

1月30日 金曜日、夜8:00頃、会社で残業していたら家から電話がありました。
先生がPHSに電話してもつながらないので、私の家に電話したそうです。
電話の内容は、かなり容態が悪い、これからモルヒネを打つとのことでした。
実家に電話して母に聞くと、先生から、もって明日の朝といわれたそうです。
家に電話して、あとで連絡するから、そしたら子供もみな病院へくるようにいい、
私も急いでいくことにしました。

病院に着くともう父はモルヒネをうって眠ってました。
母の話だと、午前中に父がかわいがっていた姪夫婦がきて、わりとご機嫌で話をしていた
そうです。ただ、午後に妹がきたのですが、そのときにはもう寝てばかりだったそう
です。

これはもうだめだなと思い、すぐくるように伝えようと家に電話したのですが
誰もでません、かみさんの携帯もなりません。

母に妹にも連絡したのかというと、さっき電話した。あそこの家も子供が小さいの
でとりあえず家にいなさいといったというので、もうこれが最後だから、呼ばないと
ダメだといい、妹に連絡したのですが、これもつながりません。

いったいみんなどうしたのかと病院の玄関で憤慨していると、妹夫婦がやってきました。
その後、かみさんの携帯にも連絡がつきました。私の最初の電話ですぐに彼女も、こども
をつれてこちらへ向かってきていたのでした。

母は私たちが子供をつれてきたことと、妹夫婦が子供をおいてきたことに怒っていました
が、そういうことではないだろうと、私も怒り、結局納得させました。

とりあえず、子供が心配なので妹の旦那さんには一度帰ってもらい、明朝、子供を旦那さん
の実家へ預けてからまたこちらへきてもらうことにしました。
私の子供たちは、病院内の小さなベッドのある控え室のようなところで寝かせてもらいま
した。

--病室--

私は3年ほど前に、別の病院ですが、1ヶ月ほど入院したことがあります。
その病院では、臨終になると、家族や、親しい親戚など人がいっぱいくるので、病室を個室
に移していました。
今回もそうするのかな?と思ったのですが病室はそのままです。

父の部屋はナースセンター横のかなり重篤な人の入る病室なのですが、他に4人ほど患者さん
がいます。
深夜でもドタドタ出入りするので、迷惑だろうと思うのですが、母にいわせると、もう皆
ダメな人ばかりだから関係ないだろうとのことでした。
でも、意識があるならば、もうダメな人ならなおさら人が死んでいくのをみるのはいや
だろうなと思いましたね。

--よく寝る妹 --

母の話によると、妹が実家にくるときは、びっくりするくらいよく寝ているそうです。
さて、この妹、この日も12時をすぎるとやはり眠くなったらしく、さっさとデイルーム
のソファに横になって寝てしまいました。これが起きない。何度かお父さんが目を覚ま
しそうだといって起こすのですが、全然おきません。おまえ、なにしにきたんだぁと思
いました。

--さてどうなったのかな?--

父は昏昏と眠りつづけてます。呼吸音が大きく、苦しそうです。かみさん(元ナース)に
よるとあごで呼吸している状態なのでもうかなりダメだろうといってます。

私の家族がついたころ、父は一度目をさましました。かなり苦しそうで、暴れて酸素の
マスクや体についているセンサーを外そうとしています。無意識でやっているのかな?
ともおもいましたが、かわいがっていた私の長男(彼の初孫)の方を見て手を差し伸べた
ので彼はわかっていたと思いたいです。

痰をとるために鼻や口からチューブをいれて、肺の中のものを吸い出すと、最初はかなり
いやがって暴れてたのですが、呼吸も楽になるのか、また、かなり消耗するのか、終わる
と深い眠りにつきました。ここで看護婦さんが楽になるようにとモルヒネを打ちました。

その後も1時間に1回ほど痰をチューブで取っていました。
痰というよりは血のようなものが大量に取れます。
眠っている父も、その時はかなり苦しそうに暴れていましたが、とってもらうと楽になる
らしく、呼吸音もちいさくなり、また寝てしまいます。

午前3時ころです。ソファーでうとうとしていると、かみさんにおこされました。
痰をとるためにチューブをいれたのだが、今度は目を覚まさないというのです。
確かに、少し眉をひそめるだけで、全然動きません。
いよいよ昏睡状態になりました。

-- 最期 --

朝になり、子供たちも疲れたようなので、私が子供を実家へつれていくことにしました。
父はずっと寝ています。

実家に子供をおいて、コンビニによっておにぎりを買ってから、病院へ戻る途中、
PHSが鳴りました。さっき実家においてきた長男からです。
母から電話があり、すぐに病院へくるようにとのことです。
あわてて病院へ向かい、走ってエレベータに乗って病室へ駆け込むと、父のベッドのま
わりに母、妹とお医者さん、看護婦さんが集まってます。
それまで見たこともなかったモニターの機械を父の体からはずしているところでした。
ここで婦長さんが9時11分ですと時間を告げました。

これが父の最期でした。

母の話だと看護婦さんから皆さん集まってくださいといわれ、実家に電話した後戻って
みると父の体にその機械を取り付け、すぐにご臨終となったそうです。

母はあの機械で安楽死させたのだろうといってますが、あれはただのモニターです。
おそらく、ナースステーションでモニターしていて異常をかんじたので、先生を呼んで
ベッドのそばにモニターを持ってきたのでしょう。
最期に目を覚ますでもなく、苦しそうにするでもなく、ふっと死んでしまったようです。
父の死はモニターの画面しかわからなかったのです。
モニターに看取られたのですね。

かみさんはその時、私に電話するために外に出ていました。
まっすぐ帰らずに、おにぎりを買いにいったのが本当に悔やまれます。

4.家に帰る

--解剖と葬儀屋さんの選択--

最期を看取った先生(たぶん内科部長)がお話があるとのことでした。
カウンセリングルームにいくと、今までの病気の経緯や、今回の治療について
話した後、可能ならば解剖したいとのことをおっしゃいます。
何でも、今後、研修医を受け入れるために、解剖の実績を積みたいということです。

私は母に任せるといいました。妹はいやそうです。当然、母も反対するだろうと思って
いたら、

"お父さんは前、死んだら解剖でも何でも俺の体を何か役にたつことに使ってかまわない
といっていた、その意思を尊重したい"

などと、すごくいいことをおっしゃいます。妹は少し不服そうですが、お父さんらしいや
ということで、解剖に同意しました。その旨を婦長さんに告げると、そういう事にはなら
ないとおもっていたせいか、少しビックリしていました。

解剖すると家に帰るのが1日くらいおくれるのかな?と思ったのですが、2時間で終わるとの
ことです。これには私がビックリしました。

母は今までになく随分しっかりしています。

以前、母は"お葬式はこことここでは100万円くらい違う、安いほうでいいよね?"といって
いました。当然そこですることにします。

ただ、病室から霊安室に運ぶのは、病院指定の業者さん(葬儀屋さん)です。
何社かが交番制でやっており、特に業者を指定しない時は、そこが葬儀を引き受けること
になるのでしょう。その話が出たとき、母はすかさず"知り合いがおりますのでC社でやって
もらいます"とその安い葬儀屋さんの名前をいいました。

"へぇ、知り合いだったの?"と聞くと、"うそよー"とのことでした。
昨日まで、看病疲れでボケていた母とはうってかわってしっかりしています。

気が張ってるだけでなく、若干躁状態のようです。

その葬儀屋さんへ電話を入れ、午後1時くらいにきてもらうように頼みました。
すぐには通夜、葬儀は無理そうとのことで、父も一度家に帰るようにしました。

病院指定の葬儀屋さんがきて、病室から、地下にある霊安室へ父を運びます。
やはりこういう時は表のエレベータではなく、ナースステーションの裏にあるエレベータ
を使います。解剖は霊安室の中で行うようで、霊安室のドアのところでしばらくのお別れ
です。
病院指定の葬儀屋さんは、男の人と若いお嬢さんの二人組みでした。
お嬢さんは髪は茶色で、いまどき風なお嬢さんですが、化粧とかはやはり暗い感じにして
ましたねぇ。
解剖が終わるまで2時間ほど時間があきました。私と母は父を迎える準備で一度実家に戻り
ました。


--そして家に帰る--

解剖が終わり、お焼香があるというので霊安室へいきました。
サスペンスとかでみるような、ロッカーみたいなのからガシャーンと死体を引っ張り出す
のを想像していたのですが、ここは、一人につき一部屋の個室です。
病室では個室じゃなかったのに霊安室は個室をあてがってもらいました。うーーーん

奥で父が横になっています。

死んだ直後は、口も血だらけですごい形相だったのですが、きれいにしてもらって、とても
穏やかな顔です。胸に包帯がまいてあります。解剖の跡なのでしょう。

先生と婦長さん、若い看護婦さんがいらしてお焼香してくださいました。
また、先生から解剖の所見も聞かせてもらいました。
肺の出血の部位がなにやら興味深かったようです。何か役にたつといいですね。

ほどなく、葬儀屋さんが来ました。この病院は、霊安室の裏がすぐに荷おろしのできる
バックヤードになっています。寝台車に父を運び、私たちと先生、婦長、看護婦さんが
一列になって見送る中、母と一緒に一足先に帰ります。

婦長さんから、請求は後日郵送でいきますのでといわれ、私達も、長くいた病院をあと
にしました。

5. 寺へ

--通夜はいつ、告別式はいつ?--

さて、家に着くともう父はきれいな布団に寝かされており、枕もとには焼香台やらが
置いてあります。
後で聞いた話では、実家は、道路から、かなり狭い階段を上っていくので、担架を
とうすのにかなり苦労したとのことでした。これは棺はとうらないだろうといってました。

私の子供たちは、泣くでもなく、おじいちゃんのそばで、ただヘラヘラしておりました。

早速、葬儀屋さんとの打ち合わせです。
葬儀の日程は斎場の釜の予定で決まるようです。
実家があるK市は人口50万人のおおきな市なのですが、どういうわけか市内には斎場が
なく、となりのT市の斎場にいくそうです。K市でも一度計画があったのですが、住民の
反対でつぶされました。

  私のすんでるところの近所にも、最近斎場が建ったのですが、やはり住民は
  反対運動をしていました。結局、たいへんきれいな斎場ができ、いつもいっぱいで、
  場合によっては1週間まつそうです。反対運動の中心人物も、最近そこで葬式をあ
  げたとのことです。(をいをい)

で、結局、斎場は明後日は朝早い時間しか空きがなく、3日後ならまだ空いてるとのこと
なので、一応月曜に通夜、火曜に告別式ということにしました。(死んだのは土曜の朝)
ただ、家では近所の寺に墓を買ったので、そこの坊さんにお経を上げてもらわねばなら
ないので、最終的には、坊さんと都合で決めようということになり、寺へいくことにし
ました。

--葬儀の料金--

また、気になる料金ですが、セット料金といって松、竹、梅みたいなもの4種類をだした
のですが、安い方2種類は今やってないそうです(じゃぁ、なんで載ってるんだよぉ!!)
結局、2つのうちの安いほうにしました。
たしか、このセットで50万円くらいですが、マイクロバスだとか、霊柩車だとか、あれも
必要、これも必要で、最終的には100万円を超えてしまいました。
(最初からセットにいれとけちゅうの!!)
あと、これに料理とお返しの品物が必要になるのです。


--寺でのできごと--

寺は家から歩いて5分ほど、私も小さいときには境内で3角ベースで遊んだり、裏の墓地
を通って学校へかよったり(近道だった)していたのでよく知ってるところです。
ただし、私のいたころは寺には住んでる人はいたのですが、住職はいませんでした。
今はずいぶんきれいで立派になって、住職も住んでます。

寺へは母と二人でいきました。戒名もこの坊さんにきめてもらいます。随分かかるん
だろうねなどと話しながら歩いていきます。

30年ぶりくらいにいった寺は、本当に立派になっており、境内は、ここで3角ベースとは
いえ、野球をやって遊べるとはとても思えないくらい随分小さくかんじました。

さて、寺の隣にある立派な家で、住職とご対面です。ジャージ姿の30代なかばの健康そう
な人物が現れました。
これまた立派な応接間で打ち合わせです。幼稚園にいってる子供さんがいて、遊んで欲し
いらしく、打ち合わせ中もなんだかんだとやんちゃをします。

日程や時間の確認をし、住職が葬儀屋さんに直接電話で話してくれて、時間も決めました。
やり手という感じで、テキパキ話をすすめてくれます。

さて、お値段です。戒名と通夜、告別式、くりあげ初七日あわせて30万円とのことです。
思ったより安いのでホットしました。ただ、この後四十九日、初盆、一周忌と長く付き
合うことになるのですね。

通夜、葬儀の時間もきまったので、それぞれ会社、町内会に電話で連絡です。

--銀行へいこう!!--

死んだことがわかると、銀行の口座は閉められるらしいです。父の口座から当面必要に
なるであろう現金を引き落としにいきました。ただし、今日は土曜日、定期はおろせない。
これは月曜朝一番にいきましょう。そして、全部の現金を引き落とすのだぁーーと、なんか
追いはぎにでもなった気分でした。
今はカードもあるし、休日でも深夜でもお金がおろせるので便利ですね。

--泣くこどもたち--

妹の旦那さんが子供たちを連れてきました。
小5のおねえちゃんと小1のふたごの弟の3人です。
おねぇちゃんは、エレクトーン、バスケット、勉強ととってもがんばり屋さんです。
小5なのに背がすごく高く、すらっとしてて、モデルさんみたいなのだ。

父が寝ている部屋へいって、お姉ちゃん、おお泣きでしてます。つられて弟も泣いてます。
私が銀行から帰ってきたらそんなことになっていたのでビックリ!!!

お線香で火遊びしたり、おじいちゃんに触って"つめたぁーい"とかいってヘラヘラしている
うちの子供たちとはエライ違いです。
母も "こんなに思ってくれておじいちゃんよろこんでるよ"とのたまう、私の子供たちは、
それを見て、やはり所在なさげにヘラヘラしています。

--準備いろいろ--

さて、父の枕もとにいろいろおかねばなりません。葬儀屋さんによると

 1.果物 2種類を4個ずつ これは家にあったみかんとりんごですませました。
 2.枕団子 白玉をねってお団子にしたもの5個。
 3.ごはん 生前使っていたお茶碗に、ごはんを大盛りにしておはしをたてておく。
 4.お茶   これもやはり生前使っていた湯呑みにいれる。

とのこと。枕団子だけないので、そこらで白い団子を買ってくればといったのですが、
結局白玉を買ってきて丸めて作りました。

お線香ですが、絶やしてはいけないとのことで、昔は一晩中だれかついていたそうですが、
最近は香取線香みたいに、ぐるぐる巻いてあって、8時間くらい持つ線香があって、とても
便利です。

--命日の夜--

妹夫婦も帰り、私たちは明日家に帰って準備することにして、皆で実家へ泊まることに
しました。

夜ご飯は、近くの回転寿司へいきました。命日だというのに、生臭いものを食べる私達です。

我が家は子供4人、狭い部屋に集まって寝るのが好きなので、例によって全員よってたかって
一部屋で寝てしまいます。

  何年か前、すごくデカイ(何部屋もある)貸し別荘に泊まった時でも、皆で一部屋で雑魚寝
  をしていた。広いところでは落ち着けないようですね。

夜、母の弟が鹿児島からきました。(うちは両親とも鹿児島)電話を聞いてすぐにきたそうです。
叔父さんは、少し前に奥さんを亡くし、今は娘夫婦と暮らしているのですが、娘夫婦とはあま
りうまくいってなく、向こうではあまり居場所がないそうです。

母も一時、父の看病でまいっていた頃には、寂しいから、父が死んだら叔父と暮らそうかなど
といって、その話を叔父にもしていたのです。叔父はその気になって、今回の電話で飛んでき
たのでしょう。

でも、もう母にはその気がありません。今回もこんなに早くなにしにきたのよと怒ってます。
そこまで話をしておいてなんだと思うのですが....

 私の経験上、操状態の人間というものは、誰かを攻撃したがるものです。

 さてこの叔父さん、おっとりしてて、かなりのんびり屋さんなので、操状態の母の餌食に
 なって、色々怒られててかわいそうでした。

 叔父さんがいなければ、妹が餌食になっていたでしょう。

昨日は全然寝てないのですっきり寝てしまいました。
叔父さんには、父の部屋で寝てもらうことにしました。

6.日曜日

--いったん家に帰る--

さて、一日たちました。

妹一家だが、今日は上のおねぇちゃんのバスケの試合だそうで、妹の旦那さんと子供は家に
戻り、妹だけ実家に来ました。さてこのバスケの試合の件ですが、一昨日、病院で、まだ父
が生きてる頃、妹が"日曜日に娘のバスケの試合がある。何もなければいきたい"などどの
たまったので、私はキレて怒鳴りちらしてしまったのでした。

死の床にある父を見て"何もない"という感情が理解できなかったが、まぁ、人はそれぞれな
のでしょう。かくいう私も結構冷たい対応をしています。

午後に料理屋さんが打ち合わせにくる、また、葬儀屋さんも、火葬場に払うお金等の現金を
前金で必要なので受け取りにくるとのことなので、子供を置いて、午前中に1回家に戻りま
した。

  なんか、そういうつもりもないのだが、わたしたち夫婦が葬式を仕切っている
  感じになっている。おやおや。

私は金曜日の朝、会社へいくために出て以来、しばらくぶりの我が家です。
時間もあまりないので、あたふたと礼服とか、着替えとかを取り出し、再び実家へ。
こういう時は、事故や何かよからぬ事が多いと聞くので、慎重に運転しました。
昔、叔母の葬式で、私は交通違反(一方通行逆進入)でキップをきられたことがあるのです。


--葬儀会場を見る--

実家へ戻る途中で葬儀会場を見てみました。かみさんが"あれだ!!"というので、ちょっと
びっくり、

"ずいぶん、おもってたのとちがうじゃん!!"

実は、私は近くにある別の会場と勘違いしていたのでした。

父の存命中ですが、母が葬式の話を切り出した時があります。
この辺で死んだ人は病院のそばのN葬儀場でする人が多いのだが、植物園の傍にある葬儀場
だと、100万円くらい安くあがるというのです。

私が知っている植物園の傍にある葬儀場というのは、たいそう立派なものでよっぽどN葬儀
場のほうがショボくみえます、N葬儀場のほうがよっぽど安そうに感じ、きっと、何か勘違
いしているのだろう、または、葬儀場の差ではなく、やり方の差でそうなったに違いないと
その時は思っていたのでした。

実は私の思っていた植物園のそばの葬儀場というのはYという名前で、たいそう立派なもの
なのですが、今回葬儀を頼んだのは、やはり植物園のそばにあるCという葬儀屋で、これが、
まるで民家みたいな大きさのかわいい会場なのです。
しかも、道路の交差点にすごく近くてけっこううるさそうでもあります。
N葬儀場より100万円安いのも納得します。

ま、文句いっても仕方ないし、会場なんてどうってことないさということで気にしないこと
にしました。

しかし、私が子供だった頃は、小学校の教室が足りなくて、プレハブの校舎で、小学校4年生
の時には新設校ができてそこへ移ったくらいだったのに、最近では学校は教室が余っていると
聞く反面、葬儀屋さんや、墓地が増えたような気がします。
これも家で葬儀をやらなくなったり、田舎にある先祖代々の墓へ入るのはいやだったりするか
らかもしれませんが、この街は年寄りばかりみかけるなぁという印象を受けます。

--料理の打ち合わせ--

午後実家に戻ると葬儀屋さんがきています。父のドライアイスの交換です。また、最初に
斎場へ支払う現金17万円をここで支払いました。
程なく料理屋さんもきました。随分痩せた男の人で、黒いスーツ姿です。
色々ありましたが、通夜は60人分、告別式の精進落としは15人分で話をきめました。

精進落としは、最終的に、斎場へいく人数で確認する。そこで、増やすことはできても
(それでも10個増やせとかは無理だが)減らすことはできないとのことだったので少なめに
見積もっておくほうがよいそうです。

受け付けは私の会社に頼みました。
町会でもいいとのことだったのですが、やはり、こういうことは、いつも一緒に仕事して
いる会社の人間のほうがよいと思います。葬儀屋さんにいわせると6人必要とのことです。
そんなにいるのかなぁと思い、会社の総務に電話したら、ま、そんなもんでしょう。
でも今忙しいから5人くらいで何とかするとのことでした。

受け付けの人にも心づけが必要です。5000円か一万円とのことなので、1人5000円/1回と
しました。通夜、告別式とも同じメンバーなので、一人あたり2日で1万円です。
葬儀屋さんでそういうお金をいれて渡すためのポチ袋は用意してくれてあります。
また、マイクロバスや霊柩車の運転手や斎場(火葬場)の火夫、待合室の配膳する人等に配る
心づけは、最初に渡した17万円から、適当に葬儀屋さんの方で払ってくれます。
この辺はいたれりつくせりですね。

--あとは待つだけ--

ということで、葬儀関係の打ち合わせも終わり、あとは待つだけになりました。

私達一家は、お風呂は近くの健康ランドへ行きました。すごい混んでる。
しかし、こういう時に、ゆったり風呂に入るのもなんだかなぁーーー

家からポータブルのCDプレイヤーをもってきました。
ヘッドホンでジョイスという歌手の"宇宙飛行士"というCDを聞きます。

これは、エリス=レジーナというブラジルの女性歌手(若くして死んだ)の愛唱歌を、
ジョイスというやはりブラジルの女性歌手が歌ったものです。
気が付かなかったのですが、追悼板なんですね。

それまではそんなに好きというほどではなかったのですが、今回は心に沁みます。

"宇宙飛行士"と"枯葉のサンバ"がいいです。これは何度も繰り返し聞きました。

とくに"宇宙飛行士"は、最初、訳詞をよんでもチンプンカンプンでしたが、この時、
これは、死んだ身近な人(恋人??)を歌ったものなのかな?と思いました。
"枯葉のサンバ"もなんか、老人が、しみじみ昔を懐かしむ感じです。

私も自分の葬式では、この2曲と"ATE MANHA(また あした)"、"詩人の涙"という曲
をかけてもらおうと思いました。

葬式でもサンバていうのがなかなかいいですね。そんな話を妹にしたら、露骨にイヤ
な顔をされました。

7.月曜日(通夜)

--まずは銀行--

いよいよ通夜の日です。とりあえず、朝1番で銀行へいき、父の定期をおろしました。
受け付けで父の健康保険証を見せて、定期を解約し、父の普通口座へ振り込んでもらい
ました。その後、普通口座からATMで速攻でおろし、母の口座へ移します。
解約の時に何かいわれるかな?と思ったのですが、わりと大丈夫でした。

振り替えだとなんかヤバイ気がした(記録が残る)ので、いちいち現金で出し入れします。
##ま、その気になって調べればすぐわかるんでしょうけどネ
そのため一時すごい現金を持ってATMの前でくらくらしちゃいました。
でも、自分のお金じゃないのがサミシイですね。

--父の見送り--

午後3:00に葬儀屋さんがきて、父を連れて行きます。
先に書いたように、家の玄関の階段が狭く、棺はとうれないため、担架で運びます。
旅支度は葬儀場で行います。

さて、私達も身支度をして、いよいよ葬儀場へ出発です。

葬儀場では、お花屋さんがきて、通夜の準備中でした。
だんだんと親戚が集まってきます。

葬儀場はどんなところかというと、一言でいうならガレージですね。
床はコンクリートです。壁はコンクリートの打ちっぱなしかと思ったら、これは
そのように見える壁紙でした。実際は普通の新建材です。
ようは、商売をしている昔ふうの大きな家の土間というかんじです。
表側に車が止められるちょっとした屋根ありのスペースがあり、その奥のサッシ戸
を開けると土間に入るというかんじですね。ま、両方とも広いのではありますが...

土間みたいなところ(きれいではあるのですが)の一番奥に祭壇をしつらえてあり、
表の屋根だけのところで受け付けをするというかんじです。
2月の初旬なので、まだ相当寒いです。なんか、ハロゲンヒーターのオバケみたい
なものを使ってました。(というより、赤外線の投光機みたいなもの)

鹿児島からいとこのお兄さんがきました。
父は8人兄弟の末っ子なのですが、その長男の子供です。
ここの叔父さんはかなり昔に亡くなっています。
この叔父さんも船長で、捕鯨母船に乗ってました。
一時、鹿児島に住んでいた時もあるのですが、その時、近所だったので、よく遊びに
いきました。叔母さんも私の母のいとこなので、一番親しい親戚です。

父が最期に会って、話していた姪はこの人のお姉さんです。
父は母と結婚する前、神戸でこの長男の叔父さん一家とくらしていて、姪を可愛がって
いたそうです。
その姪(私にはいとこ)のお姉さんも上の娘さんときました。
ここは娘が二人いるのですが、二人ともとても優秀で、下の娘さんは最近、司法試験に
合格したそうです。

いとこのお姉さんは、旦那さんの仕事の関係で、ずっと、ドイツやアメリカで暮ら
してきていたので、二人の娘さんの大学受験の時には、私の実家へきてました。

司法試験に受かった娘さんは最近結婚した(お相手は代議士の息子さんらしい)らしいです。

-- 旅支度 --

近しい親戚が集まったところで、父の旅支度をします。
手っ甲やら足袋やら脚半やらを着せます。ここで今回、はじめてうるうるしましたが、
涙はそんなにでませんでした。

父の遺言で、枕もとに父が集めていたえびす様を入れます。

妹が髪をとかします。

父は船に乗っている関係で、四国の琴平様(船の神様らしい)によくいってました。
いく度に木彫りのえびす様を買ってくるのです。そんなわけで、実家には10個くらい
えびす様があります。
今回、それを母、私、妹に1個づつ、あと、生まれ故郷で流すのに1個とっておいて、
残りは全て一緒に燃やしてくれとのことなのでそのようにしました。
えびす様に天国へ連れて行ってもらうそうです。

あとは、父の船長の服と帽子をいれます。
いとこのお兄さんが、帽子はとっておいて、仏壇に飾れば?というが、ま、遺言だから
しかたがない。

妹の子供たちは、やはり、泣いてます。
妹の子供たちは、自分たちの写真と"天国へいくおじいちゃんへの手紙"を棺にいれて
います。
それをみて、"お、うちの子も手紙くらい書いたらいいかも"と思ったのですが、目を
真っ赤にして泣いてる姪たちと対象的に、あいかわらずへらへらしている自分の子供
たちを比べて、そんな気もうせました。

-- 通夜がはじまるよ --

会社から受け付けをしてくれる人間がきました。
私の会社は小さいながらも、一応メーカーなので、検査や製造等、比較的に手が空いて
そうなところからくるのかな?と思ったのですが、私の所属している技術から3人と総務
と営業から一人づつ来ました。まったくご苦労様なことです。

最近、社長のお父さんが亡くなって、その葬儀をしたばかりなので、総務は慣れたもの
のようです。テキパキと進めてくれているようです。

会場も整い、お坊さんもきました。母と挨拶に行きます。
最初、寺で会った時はジャージ姿でしたが、きちんと坊さんの服を着てます。
戒名をここで教えてもらいました。あと、日程(初7日とか49日とかがいつ)が書いて
ある紙をもらいました。
喪主ちゅうものは、始まっちゃうと、どうなってるんだかさっぱりわからないものです
ね。
どれくらい集まっているのやら、よくわかりません。

-- お通夜 --

さて、いよいよ始まりました。
最近の通夜、告別式は椅子なので、とても楽です。
祭壇に近い席には、向かって右側に母、私、かみさん、長男が、左側には、妹の旦那さん、
妹、妹の長女の順で座ります。
他の子供たちは少し離れた親族の席に座ります。一番下がまだ入学前なのでちょっと心配です。

入り口に近い方の司会者席にあるCDラジカセから、それらしい荘厳な音楽を流して、
"人生には別れがあります"とかいうそれらしい女性のアナウンスが始まりました。

司会者は、いつも家に来てくれていた営業の人ではなく、色々と世話をしてくれた
オバサンです。みかけは普通のオバサンなのですが、意外にいい声で、よくとうります。
アナウンスの経験のある人ですね。

その後、住職の入場です。
木魚と鐘をたたきながらお経を読みます。意外なことに木魚のリズムがウラです。
日本人はウラができないとかよくいわれますが、お経もそうですし、家の近くでやる
お祭りのお囃子もわりとウラを強調しています。
意外に日本古来のものはリズム的に面白いものですよね。

ちなみに、木魚とか鐘とかは、たぶん葬儀場のものです。
自分の楽器くらい自分でもってこいよと変なことを考えちゃいました。

10分くらいで焼香が始まります。まず親戚からまわして焼香するのですが、我が家
の一番下が爆睡しています。椅子からずり落ちないか心配なほどよく寝てます。
(疲れてたのでしょう)焼香の箱が回ってきてつついても起きません。
すぐ上の兄ちゃんが殴って起こすか?とジェスチャーしたのですが、姉が制止させ
ました。結局、彼は焼香はパスです。

弔問客のお焼香が始まりました。近所からも結構集まってくれたようです。
私の会社も、小さい会社なんですが、主だった人は皆きてくれました。ありがたい
ことです。

焼香の最後に若い女性が一人できました。なんか妙に色っぽかったので、飲み屋の
オネェサンの登場かと思ったのですが、実は従兄弟の娘さんでした。
随分綺麗になってるのでビックリしました。

お焼香とお経は30分くらいで終わり、最後に住職がちょっとだけお話をしてお終い
です。
人が亡くなるのは悲しいですが、あまり悲しんでいてもしかたないですよというよう
なお話しでした。

奥の座敷でご飯を食べます。受け付けしてくれた人たちにも食事を出しました。
刺身とかそういうものが並んでいたのですが、鹿児島からきた親戚は皆ビックリ
してました。鹿児島では通夜は生臭いものは食べず、太巻き寿司ということです。
たしかに、通夜で刺身とかはどうかなと思いました(でも命日に寿司くったけど)

通夜が終わった後、妹の旦那さんが立派なカメラを持ってきてくれたので、皆で
記念撮影(というのか??)をしました。

私の子供たちは義姉が家に連れて行ってくれました。長男は最初いかないといって
たのですが、やはりあまり知らない親戚と一緒はいやなのでしょう。一緒にいくこ
とにしました。

妹の子供たちも旦那さんが実家へ連れて行ってくれました。
この葬儀場は泊まれるので便利です。結局、母、私、かみさん、妹、いとこのお兄
さんの5人で泊まりました。実家には叔父さん(母の弟)が帰ります。
一人で淋しいだろうと思うのですが、母が言うには、あの人はお酒のむとしつこい
からいいのよとのことでした。

やはり妹はソッコーで寝ました。
葬儀屋さん達は忙しいのですね、夜11:00くらいまで事務所に残ってました。
しばらく、皆でお酒を飲んで話しをしていたのですが、さすがに疲れていたので、
皆、早く寝ました。ヘッドホンステレオで昨日に引き続きジョイスを聞きます。

8.告別式

-- 告別式の朝 --
朝起きてから、おにぎりを買出しにいきました。昨日のお通夜は少し小雨が降
って、かなり寒かったのですが、今日は暖かでおだやかな、いいお天気です。
式場の泊まったところには、お風呂場もあって、かなりきれいです。
ま、お風呂には入らなかったのですが、普段やったことのない髪をとかす
なんてことをやってみました。
おにぎりとか食べてると、また親戚が集まってきます。今日はいっぱいきました。
受け付けもまた来てくれました。昨日と同じメンツです。

実家に泊まった叔父さんが少し心配だったので、迎えに行こうか?と母に聞くと
いいのよ、勝手にくるわよとのことでした。結局、叔父さんは自力できました。

司会のおばさんが電報をいっぱいもってきました。父の友人や仕事関係の人は
日本中に散らばっているので、電報はすごい量です。

この中から文を読むものと宛名だけ読むものを選んでくださいとのことです。
文を読むものは、坊津(父の故郷)の友人からのものと、父の会社の社長、父の
元の部下のものを選びました。

4人いた父の男の兄弟で、たった一人になった叔父さん(3男)も来ました。
女の兄弟も4人いるのですが、長女は既に他界し、他3人も遠い(鹿児島、下関、
淡路島)ので、みな従兄弟が代わりにきました。ちょっとした従兄弟会ですね。

伯母さん(長女)の従兄弟にもうすぐ孫ができると聞いた時にはビックリしました。
たしかに年は離れてるんですが、従兄弟に孫ができるというのは、結構ショック
ですね。

遺族代表の挨拶は、この叔父さんにお願いしました。

子供たちも義姉さんがつれてきてくれました。

住職も来ました。通夜の時は黒っぽい地味な衣装だったのですが、昨日とは違
って、キラキラした立派な衣装です。
近所の人も、昨日ほどではないのですが、来てくれました。昨日、今日と両方
きてくれた人もいます。家からは歩いて30分ほどかかるのに、ありがたいこと
です。
会社の人間も、昨日に続き、きてくれました。主だった人は二日間きてくれま
した。

-- 告別式 --

告別式ですが、通夜と同じように粛々と進みます。
お経と焼香が済むと、電報を読みます。それが終わると繰り上げ初七日です。
再び、今度は親戚だけで焼香をしました。焼香のしかたが告別式と初七日で
ちがっていたようですが、どう違うかは忘れました。

初七日ですが、私は斎場にいって、帰ってきてからやるのかと思っていたので
ビックリです。しかも、住職は斎場にいかないそうです。
普通、火葬している間、お経あげないですか??
安かったからなのでしょうか??、そういうものなのでしょうか?

これが終わるとお別れです。お花をちぎって棺に入れます。クライマックスなの
ですが、何故か私はすごく冷静です。なんか、TV局のタイムキーパーにでもなった
みたいに、ずっと時計をみて、あと何分とかやってます。

昔はここで棺に釘をうったような気がするのですが、最近はそんなことはしないの
でしょうか??蓋をはめ込むだけです。昔出た葬式では、最初に親戚が小石で釘を叩
いて(形だけですけどね)後で葬儀屋さんがカナヅチでドンドンドンと釘を打ってい
ました。あのカナヅチの音はいやだったですね。

親族代表で伯父さんに挨拶してもらいました。結構高齢なのでダイジョブかな?
と思ったのですが、全然しっかりしています。
母は父と一緒に寝台車に乗ります。私は受け付けやってくれた人から、お香典
をうけとって、慌しくマイクロバスに乗ります。結局20人ほどが乗りました。
長く警笛を鳴らせて、斎場へ出発です。

斎場まで30分ほどかかります、この辺りは小中学生のころ遊んだあたりなので、
懐かしい景色が窓に移ります。

-- 斎場にて --

斎場は先に書いたとうり、隣のT市のものなのですが、場所はなんとT市の川向こう
の東京都にあります。それを知らずに、川を渡って東京都に入ったので、何処へ行
くのだろうとビックリしました。
ここには、T市の斎場と区の斎場の二つがあります。
今は回りは倉庫や工場が立ち並んでいますが、昔は川岸の淋しいところだったので
しょう。建物は新しいのですが、古くからある斎場で、職員さんに聞いたところ、
昔、死体は焼くための薪木と一緒に船に乗って来たそうです。

マイクロバスが着くと、せきたてるようにして降ろされます。それもそのはず、
すごくおおきな斎場なので、もう次のマイクロバスが後ろに待っているのです。

準備ができるまで、斎場の廊下で父と最期のお別れです。棺の顔のところの蓋
を開けて、皆で交代で別れを告げました。

ほどなく準備が出来て、皆でゾロゾロと父の棺を押す係員の後をついていきます。
そういう行列が私たちの他に2つ3つあります。
他の行列はお坊さんが先頭にたってお経を読んで、鐘を鳴らしながら歩いていま
すが、私たちにはお坊さんはいません。黙々と早足で歩いていくのみです。

いよいよ釜の前です。ホールの中に、釜の入り口は8個ほどありました。
そのうちの一つの前に止まります。するすると父の棺は釜の中へ入りました。
父の写真と白木の位牌を係員に渡すと、一礼して係員がスイッチを入れます。
あっさりと釜の蓋が閉まりました。蓋の前に位牌と写真をおきます。
それでお終いです。
再び係員が一礼して、一時間ほどで焼きあがるので、休憩所で待っててくだ
さいとのことでした。
昔は一晩かかったそうですね。

やはり他の釜の前では、お坊さんがお経を唱えているところもありました。
ちょっと羨ましかったりして。(シツコイ!!)

今もそうかどうかはわかりませんが、鹿児島では、火葬のスイッチは係員では
なくて、子供が入れるそうです。前に叔母さんが亡くなった時、まだ子供が小さい
(高校生くらいの女の子)ので、泣いてばかりでなかなか押せずにいたという話を
聞きました。10年くらい前の話です。そりゃー、押せませんよね。

再び追い立てられるようにして、建物の2階へゾロゾロと連れて行かれます。
小さなホールのようなところで、お絞りを渡されて適当に座り、ビールなぞを
飲みながら待ちます。みかけない親戚(女性)がいたのでご挨拶に行きました。
その方は父の母方(私の祖母だな)の従兄弟で、昔、坊津に住んでおり、坊津から
仕事で上京する時に父にすごく世話になったそうです。
女の子なので、上京して働くのを心配したご両親を父が説得し、父が当時住ん
でいた神戸まで、坊津から送ってあげたらしいのです。
そして、神戸で1日過ごし、映画をみせてもらったりしたそうです。
東京行きの列車に乗るときになって、やはり心配だからと父は結局東京までつ
いて来たそうです。

死んでから、父のこういう話をいっぱい聞きました。

そうこうしているうちに時間です。また火葬場におりていきます。
その時に、休憩所で世話してくださったオバサンに、心づけをいただき、あり
がとうございますとお礼をされました。私はそんな覚えがないのですが、すで
に葬儀屋さんの方で包んであげてるんですね。これは寝台車やマイクロバスの
運転手、火葬の係員にもちゃんと包んで上げているのでした。


さて骨を拾います。
釜のホールへいったら、ここではありませんと言われました。同じようなホー
ルが二つあるのですね。一つに8個だから16個の釜があるわけです。
すごい規模ですね。これだけお釜があってもフル回転というかんじです。
既に父のお骨はホールの横の方の専用室のような所に出されていました。
ここで、泣くのでは...と思ったのですが、何故かやはり後ろから急かされる
感じで、必死になって骨を拾いました。。情緒にひたれないのは、私だけか
と思いきや、みんな、泣くどころではなく、一生懸命に骨を拾ってます。
時々、二人で一緒に拾ってくださいなどと怒られたりしてました。

ここがノドボトケですとか、ここがあごの骨ですとか、係員の方が説明されます。

最初、かみさんが、お父さんは骨の病気だったから、綺麗に骨は残るのかしらと
心配しておりましたが、斎場の腕がいいのか、きれいな骨です。
結構、薬を長く使ってる人は色がわるかったり、ボロボロになったりするといい
ますが、叩くとチーンと軽やかな音がしそうないい骨でした。(叩いてませんよ)

最期に係員がハケでざっざっと集めて骨壷にいれ、蓋をして、埋葬許可証を一緒に
風呂敷に包んで、いよいよおしまいです。
でも、骨壷をもっても、まだあまり実感が沸きません。

他にもお骨を拾っているグループがいたのですが、そこにもお坊さんがいて、お経を
唱えてました。(ホントにしつこい)

さて、これで斎場での用事はおしまいです。またも慌ててマイクロバスに乗り込み、
"後ろがつまってますから急いでくださぁい"と、せきたてられるようにして出発です。
なんか、情緒もへったくれもないですね。

あと、私は気づかなかったのですが、かみさんがいうには、なんか、なんともいえ
ない、いやーな匂いがしていたそうです。それが火葬場の匂いなのでしょうか?

釜が16基あって、朝10:00から16:00まで動かすとここで96人を1日で焼くのですね。
1週間に5日営業すると考えると約25000人/年焼いてる勘定になります。
アウシュビッツとかに比べると、意外にたいしたことないですね。
(変なものと比べるな!!)

-- 精進おとし --

またしても葬儀場へ戻ってきました。もう、ホールは綺麗に片付けられています。
さて精進おとしです。まず、母が挨拶しました。これも心配だったのですが、き
ちんと挨拶できてます。よしよし、
伯父さんに遺族代表で挨拶してもらったので、何か変な気もするのですが、私が献杯
の音頭をとることになりました。料理は思ったより美味しく、量も結構ありました。
たいへん美味しくいただきました。

従兄弟とお酒を飲むなんて、すごく久しぶりというか、初めてだったかもしれません。
父が末っ子で、私たち兄弟はわりと遅くできた子供なので、結構年ははなれているの
で、あまり話しをしたこともありませんでした。父は結構気前のいいほうだったので
従兄弟たちからも、中華街に連れてってもらっただの、ゴルフのクラブを貰っただの
と、色々な話をきくことができました。従兄弟といっても年が離れているので、昔は
あまり話さなかったのですが、私もさすがに大人になったもので、きちんと大人の話
をできているのでビックリしちゃいます。

食事も終わり、皆三々五々帰っていきます。淋しいですが、仕方が無いですね。

こうして葬式は終わりました。

-- その後 --

その後私は1週間ほど実家にいました。
子供達は学校があるのでかみさんと家に帰りました。
忌引き中に細々した手続きを済ませようと思ったのですが、無理でしたね。
長期戦を覚悟して、母のことが心配ではあるのですが、私も家に帰りました。

それから1週間くらいしてからでしょうか、母から電話がありました。
淡路の伯母さんが亡くなったそうです。
1ヶ月前から癌でかなり危なかったらしいので、父の死のことは伝えなかった
そうです。すぐ上のお姉さんだったので一番可愛がってもらったそうでした。

さて、他にも色々と面白いというか結構深刻な話もあるのですが、これは未だ
書けません。そのうちにね。


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